top of page

林芙美子について

林芙美子資料保存会林芙美子

1903(明治36)年12月31日、門司市大字小森江(現・北九州市門司区)で生まれる(下関説あり)。本名フミコ。幼少時代の一時期、若松・長崎・佐世保・下関・鹿児島・直方などを転々とした後、広島県尾道市に転居。第二尾道尋常小学校(現・土堂小学校)を卒業し、尾道市立高等女学校に進む。

1922(大正11)年、女学校を卒業し上京。女工や女給など職を転々としながら

詩や童話を書いた。1928(昭和3)年、上京後から書きためていた「歌日記」が

「秋が来たんだ―放浪記」のタイトルで「女人芸術」に掲載され、好評を得て断続連載となる。翌年、第一詩集『蒼馬を見たり』を刊行。1930(昭和5)年、改造社

から『放浪記』が刊行されるとベストセラーとなり、一躍名を広めた。翌年には

「風琴と魚の町」「清貧の書」など初期を代表する自伝的小説を発表する。

1931(昭和6)年11月、シベリア経由で渡欧。パリ、ロンドンに滞在しヨーロッパ芸術に触れ、翌年6月に帰国。1935(昭和10)年、貧しい職人が次第に狂気じみていく様子を描いた『牡蠣』が客観小説として高く評価される。

戦時中は内閣情報部による「ペン部隊」の一員として派遣、「漢口一番乗り」を 果たし華々しく報道された。また、陸軍の報道班員として南方視察に赴き、シンガポール、ジャワ、ボルネオなどに滞在、帰国後は各地で報告講演を行う。

従軍から戻ったのちは、終戦まで信州に疎開した。

戦後、執筆を再開。「吹雪」「雨」「河沙魚」など戦争がひき起こした庶民の悲劇を描いた。その後生み出された「晩菊」「骨」「水仙」「牛肉」などの短編は、晩年の代表作「浮雲」「めし」にも劣らぬ秀作ぞろい。流行作家として新聞や雑誌の連載のほか、随筆、紀行文の執筆など旺盛な執筆意欲はとどまるところを知らなかった。やがて過労による心臓弁膜症が悪化し、1951(昭和26)年6月28日、心臓麻痺により急逝(享年47)。

bottom of page